Open atelier 1
ENGAGE
2023/10/8,9,14,15,21,22,28,29(14:00-20:00)
*party 10/7,11/4(16:00-19:00 ¥2,000.-)
制作者:夜明けまではお湯
世界には「痕跡」「面影」が充満していると言えるほどそこかしこにそれを見つけることができるのであるが、それに神経を尖らせ、すり減らし、脅威として忌避する言動を人々に取らせるのが「病」であるようだとCOVID-19によって知ることになった。
生まれて初めて遭遇した「感染爆発」と呼べる状況に包まれるなか、感染が拡大していることをインターネットで眺めながら、私は無職で一人暮らしの部屋に閉じこもって暮らしていた。
私の代わりに誰かが死んでゆく、そんなニュアンスはこれまで格言で知っていただけ、あるいは身近な誰かの深刻な病、自殺、事故によって感じることはあったが、「見知らぬ誰か」にそれを感じたことはたぶんほとんどなかった気がする。
「死」が過剰に報道される。「見知らぬ誰か」がどんどん死んでいく。とはいえ今までもずっと世界ではおびただしい数の人がいつも死んでいた。そのことを知ってはいたが自分が包まれるとは思わなかった。
「病を避けよ」とインターネットが命令する。「他人を避けよ」と言うのだ。
ほとんど出かけることなく暮らしていた私は世界に対する解像度をどんどん落としていたわけであるが、スーパーに行ってもバスに乗っても、「他人を避けよ」という命令に、そこに居る人すべてが支配されているのが分かった。
2023年になって、COVID-19は、いまだに猛威をふるっているのかどうか、本当のところを知ることが難しいと感じるが、世界に充満している「痕跡」「面影」を忌避する向きは私が日常的に観測可能な半径数十キロの範囲ではかなり弱まっているように思う。少なくともバスで、電車で、ぴちっと人々が腰掛けている姿は当たり前になっている。
芸術作品はずっといつも「痕跡」の塊と言えるものだ。たとえば、塊にザクザクと跡をつける、そろりそろりと撫でる、様々な触れ方があり、様々な「痕跡」がのこる。ドローイングする、線や面がのこる。筆の跡もしみもそうだ。コンセプチュアルアートの文章だって、関わる人の言動すべてが「痕跡」になる。
人と人が関わるとはどういうことだろうと考えたことはCOVID-19の前からあったけれど、「痕跡」が連鎖して人と人を関わらせ、「見知らぬ誰か」を過剰に意識させ、人を操作する、そういうことを私は30年程度生きてきて考えたことがなかった。
「痕跡」が遅れてやってくる。「痕跡」が増殖する。それは私には直観的に、作家ひとりで作られる作品よりは、作品が独立した生命体になるような、潜在的な鑑賞者を参加させる作品を思わせた。
私は私や私以外の大勢がうみだしている「芸術作品」とはいったい何なんだろうなといつもぼんやりと気にしている。「芸術作品」とはいったい何か?この問いと、COVID-19によって私が感じた「痕跡」に関する感覚は、複数人で作ること、人と人の関係を「見知らぬ誰か」同士で連鎖させ、その「痕跡」を残すことと似ているように思えた。
そうしてできたのが「ENGAGE」である。
「ENGAGE」は、
1.複数人の参加者がひとつの粘土の塊を彫刻し、その様子は動画撮影される
2.作家が1で彫刻された最終形態の型を取り、クレヨンに置き換える
3.映像、粘土から置き換えられたクレヨン、白い紙、制作過程で出たゴミを作家が構成し、展示する
4.訪れた人は彫刻された粘土の形をしたクレヨンの塊で、紙にドローイングし、去る
という一連の流れを内包する。
遅れてやって来る「痕跡」の連鎖、増殖、「病」を、とりわけ人々に参加を呼びかけるような芸術作品に、この4年ほどの情景を映し、読み替えるものとした。
生まれて初めて遭遇した「感染爆発」と呼べる状況に包まれるなか、感染が拡大していることをインターネットで眺めながら、私は無職で一人暮らしの部屋に閉じこもって暮らしていた。
私の代わりに誰かが死んでゆく、そんなニュアンスはこれまで格言で知っていただけ、あるいは身近な誰かの深刻な病、自殺、事故によって感じることはあったが、「見知らぬ誰か」にそれを感じたことはたぶんほとんどなかった気がする。
「死」が過剰に報道される。「見知らぬ誰か」がどんどん死んでいく。とはいえ今までもずっと世界ではおびただしい数の人がいつも死んでいた。そのことを知ってはいたが自分が包まれるとは思わなかった。
「病を避けよ」とインターネットが命令する。「他人を避けよ」と言うのだ。
ほとんど出かけることなく暮らしていた私は世界に対する解像度をどんどん落としていたわけであるが、スーパーに行ってもバスに乗っても、「他人を避けよ」という命令に、そこに居る人すべてが支配されているのが分かった。
2023年になって、COVID-19は、いまだに猛威をふるっているのかどうか、本当のところを知ることが難しいと感じるが、世界に充満している「痕跡」「面影」を忌避する向きは私が日常的に観測可能な半径数十キロの範囲ではかなり弱まっているように思う。少なくともバスで、電車で、ぴちっと人々が腰掛けている姿は当たり前になっている。
芸術作品はずっといつも「痕跡」の塊と言えるものだ。たとえば、塊にザクザクと跡をつける、そろりそろりと撫でる、様々な触れ方があり、様々な「痕跡」がのこる。ドローイングする、線や面がのこる。筆の跡もしみもそうだ。コンセプチュアルアートの文章だって、関わる人の言動すべてが「痕跡」になる。
人と人が関わるとはどういうことだろうと考えたことはCOVID-19の前からあったけれど、「痕跡」が連鎖して人と人を関わらせ、「見知らぬ誰か」を過剰に意識させ、人を操作する、そういうことを私は30年程度生きてきて考えたことがなかった。
「痕跡」が遅れてやってくる。「痕跡」が増殖する。それは私には直観的に、作家ひとりで作られる作品よりは、作品が独立した生命体になるような、潜在的な鑑賞者を参加させる作品を思わせた。
私は私や私以外の大勢がうみだしている「芸術作品」とはいったい何なんだろうなといつもぼんやりと気にしている。「芸術作品」とはいったい何か?この問いと、COVID-19によって私が感じた「痕跡」に関する感覚は、複数人で作ること、人と人の関係を「見知らぬ誰か」同士で連鎖させ、その「痕跡」を残すことと似ているように思えた。
そうしてできたのが「ENGAGE」である。
「ENGAGE」は、
1.複数人の参加者がひとつの粘土の塊を彫刻し、その様子は動画撮影される
2.作家が1で彫刻された最終形態の型を取り、クレヨンに置き換える
3.映像、粘土から置き換えられたクレヨン、白い紙、制作過程で出たゴミを作家が構成し、展示する
4.訪れた人は彫刻された粘土の形をしたクレヨンの塊で、紙にドローイングし、去る
という一連の流れを内包する。
遅れてやって来る「痕跡」の連鎖、増殖、「病」を、とりわけ人々に参加を呼びかけるような芸術作品に、この4年ほどの情景を映し、読み替えるものとした。
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「分業」は誰のためにあるか?――「ENGAGE」に寄せて
/小峰ひずみ
ENGAGEは過程を作り出すことに特化した作品である。夜明けまではお湯(以下、夜明け)は①粘土をこねる→②型にどる→③その型に溶かしたクレヨンを流し込む→④固めてクレヨンの塊をつくる→⑤それで絵を描く→⑥絵が完成する。この6つの工程そのものを作品にしている。最終的に絵が完成するが、それが作品なわけではない。また、クレヨンの塊が完成するが、それが作品なわけでもない。ましてや映像が作品なわけでもない。過程を作品にすること。それは消滅することそのものを作品化しようとする困難な試みである。いわば、夜明けが再現しようとしたのは6つの工程の「→」の部分だ。だから映像があり、絵があり、クレヨンの塊があり、塑像台があり、クレヨンのゴミがある。この会場に最も類似した場所は、明らかに、工場である。夜明けが労働に強いこだわりを見せているのは、第二作である「メトロノームと割り箸」でわかることだ。夜明けは作品を通して参加者を工場労働者にする。ENGAGEを見たときのある種の既視感は、そこが労働現場であることに由来する。ENGAGEは命令形である。「参与せよ」ということだ。むろん、ここでは「誰もが労働に参加せよ」という意味にほかならない。それは資本主義の要請を端的に示したものであり、特に新しみを感じることはない。そりゃ、別に働いていなくたって誰もが日々何かにENGAGEしているのだ(それがアントニオ・ネグリの言う「マルチチュード」である)。しかし、夜明けは工場と「似ている」工程を芸術作品にすることで、工場がかつて――おそらく近代の初期――持っていた――牧歌的な光景を蘇らせようとする。分業がそれである。そこで人々はたしかに互いに関与し合っていたはずなのだ。夜明けのステートメントにはコロナへの純粋な反発が書き連ねられている。それはコロナが夜明けのユートピア的な分業を損ねてしまうものだからだ。だが、夜明けが根本において対立しているのは、誰もが互いに関与し合う「分業」を――ハラスメントによって、あるいは、搾取によって――構造的に貶めた資本主義なのだ。夜明けがENGAGEによって出現させようとしたのは、端的にいえば、最も純粋な形で表現された共産主義の理想である。その点で言えば、夜明けの作品はあまりにもわかりやすすぎる。それはあまりにもわかりやすすぎて、あまりにも素朴で、あまりにも時代遅れな、人間疎外への糾弾である。しかし、共産主義はなにより労働過程における人間疎外への糾弾をその原動力にしたはずなのだ。ゆえに、夜明けは資本主義がつねに抑圧する共産主義への渇望を、かつてないほど端的に、かつ素朴に、表現している。(批評家/こみね・ひずみ)